スーツを身に纏うは、自室のテーブルの上に項垂れて力尽きていた。カチ、コチ、と壁掛けの時計の秒針がやけに大きく聞こえる程、静かだった。横目で時計の示す時刻を確認すると夜の8時を回った所で、自分は彼此3時間も此の体勢で居た事に驚く。ガチャ、と鍵が開けられ、扉が開く音が聞こえた。其れは自分の部屋からではない、タオル一枚挟んだ向こうの部屋、隣人である安室の部屋からのもの。 「安室さーーーん、おかえりなさーい」 「ただいま」 「そっち行っても良いですか?」 「良いですよ」 タオル越しに安室に承諾を得てから、はいそいそと床を這いずって目隠しのタオルを捲り、安室の部屋へと入る。ボーダーシャツの上にジャケットを着ていた安室は、椅子の背凭れに脱いだジャケットを掛けると床を這いずって部屋に上がってきたを見て苦笑するのだ。 「面接ダメだったんですね」 「はい、駄目でした。全然駄目でした。ヤバイです。もう不採用これで6件目です。心折れました」 「明日も面接があるんでしたよね?元気出して、次で決まるかもしれないじゃないですか」 「そうですけどおおおお」 でも心がもう限界です!とは床に仰向けに寝転がると顔を両手で覆って嘆く。壁に大穴が開いて以来、と安室はほぼ毎日言葉を交わしていた。と言っても片っ端から面接を受けているが、不採用連絡が来る度に安室にこうして話を聞いて貰おうと声を掛けてくるのである。 「本当にヤバイです、もうお金ないですもん。ご飯食べるお金すらもう無くなりそうで。あたし初めてなんですけど、こんなに貧乏なの」 「大袈裟だなぁ」 「全然大袈裟じゃないです!」 真顔で天井を見ながら大の字になるを、苦笑しながら安室はキッチンに立った。独身男性にしては珍しく、安室はしっかり自炊をするタイプらしい。料理が出来ない訳ではないのだが、作るのも後片付けも面倒で何時も買ってきたもので済ませるは、そんな安室を偉いなぁと尊敬するのだ。勢い良く身を起こし、安室の発言を否定すれば、ふと視界の端に入った開いたまま置かれているグルメ雑誌。ペンで印を付けられた其の店舗は過去に一度が足を運んだ事のある店だった。 「安室さん、池袋行くんですか?」 「そうですが…どうしてそう思ったんです?」 「これ。池袋で2年前位にオープンしたばっかの店ですよね」 「驚いた、良く分かりましたね」 「一応地元なんで、池袋」 キッチンで夕食の準備を始める安室にが問えば、手を動かしながら安室が問う。そんな彼にグルメ雑誌を手にとって目せるように彼に向けながら印の付けられた店舗を指差しが言えば安室は意外だと言わんばかりに目を丸くし、は池袋出身である事を明かすのである。 「米花町出身じゃ無かったんですね」 「就職を機にこっちに来たんです」 「へぇ…」 何か考えているのか、歯切れの悪い相槌を打つ安室。大して其れを気にせずは何気無くグルメ雑誌を見る。見覚えのある店舗は勿論、新しく出来た店舗を見ては、へー、こんなの出来たんだー、なんて感想を述べるのだ。 「さん、明後日面接予定はありますか?」 「無いですけど」 「じゃあ明後日、バイトしませんか?」 「バイト?やります」 「早いですね」 雑誌を意味もなく捲っていれば、不意に安室からバイトの誘いを受け、金欠のは瞬時に頷いたのなら、安室は可笑しそうに笑うのだ。働けるなら何でも良い、兎に角お金が要るのだ。 「バイトってどんな仕事ですか?」 「僕と一緒に池袋に行く。其れだけですよ」 「えっ」 ピタリ、雑誌を捲る指が止まる。 「此の店のオーナーを調べて欲しいって依頼が来てまして。どうせなら池袋を良く知る人間といった方が何かの役に立つかもしれませんし」 「池袋…ですか…」 「嫌ですか?バイト代はそうだな…これくらいでどうでしょう?」 明らかに困惑した様子を見せたに、何かあるのかと安室は目を光らせた。やはり何か企んで接触してきたのだろうか、以前晴れた筈の組織関係の人間では無いと疑惑がまた過ぎる。これを逃す手はないと、畳み掛ける様に安室は一度キッチンから離れると財布から五千円札をチラつかせ、更に朝から行く為、朝食と昼食代もつけるよと微笑むのだ。 「行きます、行かせて下さい!行きましょう!」 「良い返事が聞けて良かったです」 落ちたな。内心、安室がほくそ笑んだ事をが気付く筈も無かった。 バイト当日、即ち安室と共に池袋にやって来たは久し振りの池袋の街並みを懐かしい気持ちで眺めていた。何せ大学を卒業して米花町に来てからは一度も池袋には近寄らなかったからである。 「安室さんはあんまり池袋には来ないんですか?」 「そうですね、仕事で偶に来るくらいですよ」 「そうなんですか」 朝は米花町にある喫茶店で朝食を済ませ、其れから池袋に移動した2人は予定通り目的の店舗へと向かった。オーナーの顔を把握して要る安室が店内で様子を窺い、外で店内の様子をが撮影しながら不審な人物が出入りしないかを見張る。昼過ぎまで調査をした後、店内から安室が出て来れば今日のバイトは此れで終わりだと言う。簡単なバイトで五千円も報酬を貰えたのだから実に美味しい労働だった。昼食は近くの焼肉屋で済ませ、二人は駅に向かって歩きながら他愛ない会話をする。時刻はすっかり夕方で、学校帰りの学生達がちらほらと歩いていた。 「あーれ、さん?」 「紀田くん?」 帰路につく学生達の中、見覚えのある男子学生に声を掛けられ、男子学生とは立ち止まる。紀田と呼ばれた金髪の男子学生は「やっぱり!」とパッと顔を明るくさせたなら小走りでの元へとやって来るのだ。其の後を見覚えの無い大人しそうな男子学生は慌てて追いかけて来る。 「お久しぶりです!」 「久しぶりだね!その制服、来良のだよね?高校生になったんだ!」 「はい!今年の4月から」 「そうだったんだ、おめでとう」 にこり、とが微笑めば嬉しそうに笑う紀田。背も伸びたね、なんて紀田と話していると自然と視界に入る彼の後ろに控える男子学生。きっと紀田の友達なのだろう。 「そっちは友達?」 「来良に入学するのに引っ越して来た俺の幼馴染っス」 「あっ、竜ヶ峰帝人です」 「です、宜しくね。と言っても、今は米花町に住んでるから池袋には今日偶々来てるだけなんだけど」 竜ヶ峰帝人だなんて、なんだかエアコンの様な名前だなと思ったが其れは口にしない。紀田の幼馴染だという帝人と自己紹介を交わしたなら、不意に紀田の視線がの隣に佇む安室へと向いた。褐色肌と明るい色の髪が特徴的な眉目秀麗な安室に紀田は本日一番、目を輝かせるのである。 「さん、デートっスか?遂に彼氏出来たんスね!」 「彼氏じゃないよ、今住んでる所のお隣さん!」 「そう。僕は唯の隣人です」 「あれ、そーだったんスか」 の彼氏だと思い込み、帝人を押し退けて詰め寄った紀田を、は違うと手を左右に振りながら否定する。其れを肯定する様に安室も優しく微笑んで頷けば、やけにガッカリとして紀田は納得するのだから、は困った様に笑うのだ。すると今度は「あ、」と紀田は思い出したかの様に声を漏らすと、斜め右側にある道を指差して言うのである。 「静雄さんだったら向こうの通りに居ましたよ」 「そうなの?でも静雄に会いに来た訳じゃないんだよね」 「静雄?」 紀田との会話に出てきた“静雄”という男の名前。深い意味は無く、けれど気になって安室が口を挟んだのなら、の目は紀田から安室へと移る。 「静雄は―――」 が開いた口からは、静雄という名前の他は出て来る事が無かった。と言うのも遮られたと言って良い。しかも突然視界からが消えるというおまけ付きだった。 |