はすでに決めていた。気持ちの整理をするまでもなく、決まっていた。最終決戦に臨むことを、連れ去られてしまった柳を取り戻す決意を、死ぬかもしれない戦いに臨むことを。あの日あの時、一度”お別れ”をした陽炎の屋敷で、既に決めていたのだ。この決意は揺らぐ事無く、鉄よりもダイヤモンドよりも硬い意思で固められていた。生半可な覚悟ではない、そして死ぬつもりもない。みんな笑顔で帰ってくる、その為には火影の足手纏いにならぬよう強くなる必要があった。陽炎の屋敷を後にした後、最初にがとった行動は母親へ一通のメールを送信することだった。「今日と明日は色々あって帰れない、明後日帰るね」絵文字も顔文字も一切ないメールを送信。母からの返事は何時も通り「はい」という一言だけだったが、はこの一件素っ気無く見えるメールの返信に心底安心と感謝をする。何故だと理由を聞かない母親、肉親に嘘を吐くという行為を良いとは思えないからとっては、深入りされないのはとても有り難く好都合だったのだ。そしては一度帰宅する。この時間、母親と父親は共働きの為に家には居ない。家に上がり己の自室へと直行すれば押入れの中から神慮伸刀を取り出すと大きめの布を巻きつけて、その姿を隠すと部屋を出て外へと飛び出した。端から見れば消えたように、韋駄天を発動して走り出せばは近くの山へと駆けて行く。己の生存を高める為、柳を救い出す確立を上げる為に、修行をすることにしたのだ。今から修行をしたところで何も変わらないかもしれないが、何もしないよりはマシだと考えた結果だった。我武者羅に空神を操り、韋駄天で駆け抜け、神慮伸刀を振り回すわけではない。学問では滅多に使わぬ頭をフル回転させて、いかに無駄なく動けるかを考えながら、時には空神にアドバイスを貰いつつ、ひたすら体を動かし続ける。太陽が沈み月が昇れば、月が沈んで太陽が昇り始める。学校は無断欠席し、はひたすら修行に集中する。太陽が沈み空が橙色に染まった頃、は漸く動かせ続けた体を停止させて一つ深呼吸。神慮伸刀を布で包めば、それを担いで山を後にする。そろそろ夕食時だろうか、そんなことを思いながらは山を下っていく。街灯がぽつぽつと光を灯し始めている住宅街、夜道というにはまだ明るいかもしれないような頃を一人は歩く。二日ぶりに見た我が家からは、大好きなカレーの匂いがした。


「ただいまー」

「お帰り。ご飯出来てるわよー」

「知ってる!カレーでしょ!」


ドアを引けばリビングの方から聞こえてくる母の声。玄関で韋駄天を脱ぎ、まるで隠すように靴箱の空いたスペースに押し込むとはリビングへと向った。空神が装着された右腕には山を下っている時から既にアームウォーマーが付けられており、布で包まれた神慮伸刀をリビングの壁に立てかける。リビングに居る母へと視線を向ければエプロン姿の母が優しい微笑を浮かべて出迎えてくれる。テーブルの上に並べられた美味しそうなカレー、父がテレビ画面から視線をに向けると小さく笑みを浮かべて「おかえり」と言う。父に笑顔で「ただいま!」と返事を返せばは父の向かいの席に座った。母がエプロンを外して席に着けば食事の合図。両手を合わせてお決まりの頂きますの言葉を言って、スプーンを片手に出来たてのカレーを口に含む。


「うまっ、幸せー…」

「母さんの料理は絶品だからな」

「褒めたってビールは一日一本だけよ」

「そんなつもりじゃなくてだなぁ」


酒好きの父、呑みすぎるのは体に良くないからと母はいつも父に一日一本だけの缶ビールしか呑む事を許さない。最初こそどうにか本数を増やそうと努力をしてきた父だが、今となってはもう諦めているのか一日一本だけで我慢しているようだ。何時も通りの何処にでもあるような家庭の会話にほんのり甘くほんのり辛いカレーを食べながらは自然と笑みを零した。ゴールデンタイムと言われるこの時間帯、芸人達がテレビの向こうで見せる笑いに、同じように三人で笑いながら家庭の温かさを身を持ってが実感していた、そんな時だった。


「あら?」


母が家に突如鳴り響いたインターホンの音に顔を上げる。誰かしら、こんな時間に。なんて言いながら手を付いて椅子から腰を上げる母。父も誰だろうか、と視線をテレビから玄関の方へと向けている。テレビの向こうで最近大ブレイク中のお笑いコンビがコントを披露しているが、家でそれを見ている者も笑っている者も居ない。父と母が不思議そうに玄関を見ている中、は目を細めてまるで観察するように探るような視線を玄関の向こうへと向けている。


「いい、あたしが出てくるからお母さんとお父さんは此処にいて」

「…そう?」

「うん」


は母と父に何時も通りの笑みを向けた。のだが父も母もその笑みが偽物だということが分かっていた。何十年も一緒に住んでいる我が子、愛を注いで育ててきた愛娘、そんな娘の表情が本物か偽物か判別がつかないはずがない。が椅子から立ち上がり、玄関に向かおうとすると玄関の方からゆっくりと扉が開かれる音が聞こえてきた。娘の偽物の笑みに加え、勝手に玄関の扉が開かれる音。父と母にも微妙な雰囲気が流れる。はそっと、父や母に気付かれることなく神慮伸刀の方へと近付き手を伸ばす。それは気付かれないように動いたわけではなく、玄関の方に意識が向いている父と母には、の行動は視界にも入っておらず意識の範囲でもなかった為に気付かなかったのだが。ゆっくりと開かれるリビングと玄関が繋がる扉。警戒心が強まる父と母や椅子から立ち上がり一歩下がると、父が母とを守るように前に立ちはだかり、母は父の後ろでを背で隠すように守る。の心境は複雑だった。


「(あたしが、巻き込んだことなのになぁ…)」


自分が招いたことで、自分だけならまだしても、父と母が危険に晒されている。そして、そんなことも知らぬ父と母は自分を守ろうとする。己の身を犠牲にし、傷付いてでも自分を守ろうとする父と母の背中に、は心の中が熱くなるのを感じた。開かれた扉の向こうには、両手にナイフの様な武器を持った一人の細身の男がにやにやとした下品な笑みを浮かべて立っていた。きらりと光に反射して怪しく光る男の凶器に父と母の顔色は一瞬にして代わり、警戒心が強くなる。


「…何なんだ、君は」

「言うまでもないね、何故なら言った所でお前たちは死ぬんだからさ」

「「!!」」

「………。」


父が声を絞りだして出した言葉に男は笑みを絶やさず三日月のように口角を吊り上げて笑って返事する。息を呑み、体を強張らせる父と母。母に限っては小刻みに震えているのをは至近距離から感じ取っていた。男はくるくるとナイフを回しながら再び口を開く。


「けど、自己紹介しろってんならしてやるさ!自分を殺す男のことは知っておきたいだろ?俺は裏麗の一人!名は―――」


この先、男の言葉が続くことも名を告げることもなかった。何故なら一瞬にして移動したが神慮伸刀を左手に、男の腹部に肘鉄を決めて床に倒すと馬乗りになって、神慮伸刀の切っ先を目の前に突きつけていたからだ。後数cmで肌に食い込むという距離に男の顔から余裕は消え去り脂汗が滲み出る。はらりと滑って神慮伸刀の姿を隠していた布が床に落ち、父と母の目にきらりと光る鋭い刃が映る。


「あぐうあ…ッ」

「何しに来たのかは何となく解ってるけど…帰ってくれる?」

「く…っそぉおおぉぉおおおぉおおおお!!」


男はの肘鉄が効いているのか腹部に感じる激痛に耐えながら歯を強く食いしばってを睨みつけている。は臆する事無く男を見下ろして言葉を吐けば、男は絶叫し両手に持つナイフを同時に振り上げてに襲い掛かろうとする。父と母が悲鳴を上げる暇すら与えず、は右手でナイフを払うような勢い良く横に掌をスライドさせる。の掌がナイフに触れる直前、の掌の前に来た瞬間、男のナイフは粉々に粉砕される。空神の能力だった。空神のその衝撃でアームウォーマーが引き裂かれるように亀裂が入り、細く白い腕に巻きつく昆虫の様な禍々しい姿が晒される。まるで己の存在を主張するようにビクッと空神が脈打つ。突きつけられている神慮伸刀、粉砕されたナイフ、男の表情が絶望のものに変わる。完全なる男の敗北だった。


「糞餓鬼がぁあああぁぁああああああああ!!」


男は隠し持っていた小型ナイフを勢い良く引き抜けばの後方に居り、目の前で繰り広げられる現実に付いて来れないでいるの父と母に向かって投げる。小さくとも鋭い刃が父と母に向かっていくのを横目で捕らえれば、は焦りを覚えた。


「(空神じゃ間に合わない!)」


振り返ってナイフに向かい空神を翳すには時間が足りない、振り返って構えた時には父か母にナイフが突き刺さってしまうだろう。迫り来るナイフの切っ先に恐怖の色を浮かべる父と母が視界の端で見える。は歯を食いしばり、心に浮上したことを思う。


「(神慮伸刀が伸びたら、間に合うのに!!)」


刹那、神慮伸刀がの心に反応するように宝玉をきらりと光らすと一瞬にして刃が伸びる。キンッと聞こえる金属音、が振り返れば神慮伸刀の刃に弾かれたナイフが床に深く突き刺さっている。危機一髪、ナイフ目掛けて伸びた神慮伸刀の切っ先は父と母に触れる一歩手前だった。


「(神慮伸刀が伸びるなんて聞いてないんだけどぉおおぉおおおおおおお!!)」


今日一番のの絶叫とも言えるツッコミが炸裂する。とは言っても声には出さず心の中でのことだが。内心驚きで鼓動は早まっており、混乱して頭が爆発してしまいそうだが、それを何とか抑えて隠し、は冷静な表情を浮かべると己の下で震える男を見た。男は決定的な敗北、絶対的な強さに恐怖していたのだ。男がに命乞いをするよりも早く、は神慮伸刀の持ち手の先の部分を強く男の腹部に叩き込んだ。男は口から唾液のような液体を流すと、は男の上から退いて窓を空けると、其処から乱暴にも空神の力を借りながら男を外へと投げ捨てた。ゴミを捨てるような、そんな軽いものではなく、姿が見えなくなる程に遠く早く全力での投げ捨てだ。静まり返るリビング。はそっと神慮伸刀に念じてみる。”小さくなれ”と。すると神慮伸刀はの要望に答えるように持ち運び便利な掌サイズの一番小さな形にまで縮む。何でもっと早く気付かなかったのだろうか、なんて思いながらはゆっくりと後ろを振り返る。父と母の四つの瞳が己を戸惑いの色を浮かばせながら見ていたのだが、それはすぐに消え去って、優しい何時も通りの父と母の表情に変わった。今度はが驚きを隠せない。


「何となく解ってたのよ」

「へ?」

が危険なことに関わってることは父さんも母さんも気付いてたんだ」

「………。」


父と母がに歩み寄り、父が優しくの頭を撫でる。愛を込めて優しい微笑を浮かべ、慣れた手付きで頭を撫でる。は強く拳を握ると、父と母を見上げ、四つの瞳を怯むことなく真っ直ぐ見据えれば己の想いを口にした。


「戦わないと、いけないんだ。友達がね、攫われちゃった」

「「………。」」

「前にもあったの、命懸けの戦い。けど、今回は本当に危険で、死んでもおかしくないと思う。でもあたしは戦わなくちゃいけない」

「「………。」」

「あたしは死なない。柳ちゃんを絶対に助ける!だから戦う。…今まで黙ってて御免なさい」


は決して父と母の想いが解らないわけではない。もしも自分にも娘が居たのなら、そんな危ない命懸けの戦いには行かせたくないし行かせないと思う。けれどは行かなくてはいけないのだ、そう決めたのだ、心に誓ったのだ、柳を必ず救うのだと。の強い意志の篭った瞳を見て、父と母は優しく微笑み言葉を繋ぐ。


「いってらっしゃい」

「ただし、帰ってきた時はお説教だからな」

「そして強く、私達に抱きしめさせてね」

「必ず生きて帰ってきなさい」


父と母の言葉が胸に響き熱い何かが溢れ出しそうになる。これ程までに優しく強い父と母を持つ自分は、幸せ者であり、そして誇りに思う。父と母の声色からは心配の色が見え隠れしている。それでも背中を押してくれる。今まで隠し続けてきたことの説教は森光蘭との決着がついたら幾らでも聞こうと思う。戦いが終わったら笑顔で帰宅し、心配を安心に変えさせて強く抱きしめられたいと思う、抱きしめ返したいと思う。必ず生きて帰ると約束しようと思う、約束する。



















フード付きで袖が無く、ショートパンツの黒の繋ぎの服。胸下まで下げられたファスナーの下から、中に着ている黒のインナーが見える。何時も通り、トレードマークにもなりつつあるヘアースタイル、濃い灰色の髪を右耳の後ろで一つに縛りシュシュで結べば、以前風子に貰った小型化した神慮伸刀を入れるケースを左太腿に装着して(当時は神慮伸刀が小型化出来るなんて知らなくて、こんな小さなケースに神慮伸刀が入るわけないなんて思ってたけど)ケースの中に小型化した神慮伸刀を入れる。右手には空神を装着し、玄関では座りながら韋駄天を履いていた。傷や汚れが所々あるものの手入れの施されている韋駄天を脱げないように、しっかりと履いては立ち上がる。振り返れば早朝にも関わらず父と母が起きていて、玄関に二人揃って立っていた。が父と母に掛ける言葉は一つだけ。


「いってきます」


が扉を開ければ扉の隙間から眩い太陽の光が差し込む。そんなの背中に父と母が掛ける言葉も一つだけだった。


「いってらっしゃい」





















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