逃げる事は簡単だった。此の煉瓦の壁をぶち破る事も、鉄の扉を粉砕する事も、届くはずの無い遥か高き場所にある小窓から飛び出す事も。その気になれば、幾らでも逃げ道はあったのだ。しかし其れをせず、大人しく鎖に繋がれ、ろくな扱いもされぬまま、囚われの身で日々を無駄に無意味に過ごしたのは、其れでも良いとさえ思っていたからだ。時間は腐る程に有り、これといった何かを成し遂げなければならないような目的も無かった。永い永い意味の無い時間だけが、有ったのだ。只々、憂鬱だった。





凛とした、何処か冷ややかな声に幼き少女は意識をうっすらと浮上させる。知らず知らずの内に眠ってしまっていたらしく、寄り添っていた筈の大蛇のナーガは何時の間に離れたのか、部屋の隅で塒を巻いていた。牢の中には大蛇のナーガの他に、新たな存在が一匹加わっており、言わずもがな“彼”が己を覚醒させた張本人である。


「…チャーリー」

「相変わらず良く寝るね」


皮肉を吐きながら小さな足でカツカツと床に足音を立てながら四足歩行をして近付いて来る人語を話す黒猫を、此の牢に囚われた大罪人、は目元を擦りながら見据え、虚ろな意識で重い上半身を起き上がらせた。頭上を見上げれば変わらず日の光は差し込んではいるものの、其の光が少し弱く感じるのは、日が暮れ始めているのかもしれない。


「暇だから」


欠伸を噛み殺しながら、吐き出された声は実に憂鬱である。そんなに歩み寄るチャーリーと呼ばれた黒猫は、軽いステップで床を蹴り、の膝を更に踏み台に飛び上がると、其の細い肩に華麗に着地してみせるのだ。シャンパンカラーの細い髪の隙間から小さな顔を突き出して、黒猫は擦り寄りながら言う。


「バンが脱獄したよ」

「だろうね」

「気付いてたのかい?」

「メリオダスの生存を聞いて、大人しくしてるバンじゃないでしょう」


柔らかい毛並みをが優しく撫でれば、気持ち良さそうに喉を鳴らしてチャーリーは顔を上げる。チャーリーの真紅の瞳にの横顔が写り、のエメラルドグリーンの瞳に小柄な黒猫の姿が映る。シャア、と掠れた声で塒を巻いていたナーガが一鳴きし、へと近付く。


「直ぐ其処までメリオダスとディアンヌも来てる。あと見慣れない女の子と豚が一緒だよ。彼等がバンと遭遇するのも時間の問題だと思うけど…」


擦り寄るナーガを慣れた手付きで撫でながら、肩に留まる黒猫の言葉に耳を傾けた。囚われた牢の中には、本来なら居る筈の無い他二匹の存在がある。しかし誰も咎めないのは、此の牢を監視する兵士が居ないからだ。つまり。


「君はどうする?」


誰にも気付かれる事無く、脱獄する事も可能だという事。しかし此の幼き少女が、が、其れを実行しない事を一匹の大蛇と、一匹の黒猫はとても良く知っていた。


「どうもしないよ」


薄っすらと口元に笑みを浮かべ、儚げに微笑む少女は、寝ている間にずれてしまった大きな漆黒の帽子を目深く被り直す。


「君らしいね」


黒猫、チャーリーはひらりと肩から飛び降りると軽やかに床に着地を決め、に振り返った。真っ白な陶器の様なきめ細かい肌に、シャンパンの長い髪。くりっとした真ん丸な大きなエメラルドグリーンの瞳は見つめていると吸い込まれるのでは無いかと錯覚する程に見惚れるものだ。今は未だ幼い11歳程度の少女だが、後に絶世の美女と化すに違いないだろう。大きな鍔の広い先が折れ曲がった三角帽子を被り、飾り一つ無い実にシンプルな黒のドレスと呼ぶには質素なデザインのワンピースを着用する少女、は、傍らに大蛇と黒猫を携え、少しずつ、少しずつバステ監獄へと近付いて来る懐かしい魔力を纏う二つの気配と、監獄内を徘徊する一つの気配を感じた。



















ぼんやりと旧友の気配を辿るだけに徹底していたは、突如バステ監獄を覆う様に広がる魔力に違和感を感じ、目を細める。其れはだけでなく、ナーガやチャーリーも敏感に察知していたようで、ナーガは蠢き、チャーリーは耳を小さく動かせた。


「永劫封印術か」

「此れで全員閉じ込めておくつもりなのかな」

「ゴルギウスがしそうな手だ」


永劫封印術、暴龍10体を封じても破壊不能の強力な隔離魔法障壁と呼ばれる強い魔力である。何故今になってそんなものを施す必要があるのか、あえて言うのであれば、バステ監獄に侵入した“七つの大罪”の二人と、脱獄した同じく“七つの大罪”の一人を確実に外へと逃がさない為だろう。此の魔力が、果たして“七つの大罪”に通用するとでも思っているのだろうか。少なくともやチャーリー、ナーガは露程にも思っていなかった。彼等の力を、一人と二匹はとても良く知っていたからだ。


「あ」


遠く離れた所から、小さな破壊音が響く。離れているからか、音こそは小さいものの、其の激しい物音はかなりの規模である事を物語る。


「ナーガ、チャーリー」

「分かってるさ」


が静かに呼び掛ければ、チャーリーは当然とばかりに頷き、ぴったりとの傍にチャーリーが、ナーガは囲む様にに寄り添う。地響きが響き、崩壊の物音が立つ。揺れる煉瓦作りの牢、此処まで揺れる程にメリオダスとバンは派手な感動の再会を果たしているらしい。次第に頭上からはパラパラと小石が降り、遂に敷き詰められた煉瓦に亀裂が走れば、瞬く間に崩れ始めるのだ。


「使わないのかい?」

「大丈夫」


崩壊する牢、降り注ぐ大小様々な瓦礫には静かに瞼を下ろした。耳元で聞こえる激しい崩落の音に、巻き起こる砂埃。10年間、幽閉されていた牢は愛着さえ湧く事も無く無惨に崩れていった。10年、それは決して短いとは言えない月日。しかしあっという間だった。数え切れない程の拷問も、食事もろくに与えられない日々も、全てが牢の瓦礫と共に崩れ落ちていく。





チャーリーが小さく鳴いた。閉ざしていた瞼をゆっくりと開けば、頭上いっぱいに広がる10年ぶりの空は朱色で、肺に吸い込まれる空気は埃っぽいが以前の様なカビ臭さは無い。すっかり日が傾いた景色は、何処かとても壮大に見える。


「よう、


懐かしい声だ。素直にはそう感じた。其の場に座り込んだまま、後ろへ振り返れば10年前と変わらぬ姿のメリオダスが、薄汚れた格好で瓦礫の上に腰掛けながら片手を上げている。


「無事で良かった!」


身軽な動作で立ち上がり、足場の悪い瓦礫の上を跳ねる様にしてメリオダスは瓦礫に囲まれ、大蛇に囲まれ、黒猫を携えるへと歩み寄る。交差する同じ瞳の色をしたメリオダスとの瞳。


だ!久しぶり、僕のこと覚えてるよね?」

「あー…お前も此処に居たんだな。そういや、最近よくナーガみてぇな大蛇は見掛けるとは思ってたが…やっぱナーガか」


離れた所で若い女を握り締める相変わらず巨体のディアンヌと、上半身裸のほんの少し大人びたバンの姿もある。バステ監獄が崩壊した事により、囚われていた数多の罪人達は浮き足立って解放されたと歓喜を上げて走り去って行く。騒がしい人々の声が彼方此方と上がる中、メリオダスはそっとへと手を差し伸べるのだ。


「探してたんだ。一緒に来いよ!」


差し伸ばされた手を取ることなく、は呆然とメリオダスを見上げる。メリオダスは、にかりと歯を見せて笑うと、の両腕を拘束する枷に触れれば、それをいとも簡単に真っ二つにするのだ。


「ほら」


強引に掴まれた手、力強く引かれる腕に勢い良く立ち上がらせられる。ナーガはの足元で這いずり、チャーリーは足に擦り寄った。


「ナーガとチャーリーも元気そうだな!」


メリオダスはの手を引き、ディアンヌとバンが腰掛ける方へと歩み出す。連れられる様に足を動かすだが、其の足はしっかりとしていて瓦礫の山を進んだ。










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